博南古道
 


 

博南古道-保山中国の国内三本のシルクロード(西北方の陸上シルクロード、南方の海上シルクロードと西南方の陸上シルクロード)のなかに西南方の陸上シルクロードはもっとも早く、紀元前四世紀にもう開通された。漢の時代にこのシルクロードは“蜀―身毒道”と呼ばれ、蜀が四川省で、身毒がインドの古称である。いわゆる四川省発、雲南·ミャンマーを経由し、インド着の商業ロードである。

この古道は通行しにくいであるが、古代の商人たちはあらゆる困難や危険を乗り越えてこの民間の貿易ロードを打ち抜いた。人々は馬、駱駝、人力まで利用して、シルク、布地、磁器、鉄器、漆器、茶などをインド、ミャンマー各地へ運んで、当地の商品と交換し、宝石、真珠、海貝、琉璃などを持って戻り、往復に販売していた。同時に、インド仏教の思想も沿道に伝わられた。後漢の時代にミャンマー人の楽隊、雑技が洛陽の宮廷に伝えられたことも、この西南方の陸上シルクロードの永昌道を通って南アジア各国と文化交流の結果である。

西南方の陸上シルクロードは四川発、東南の五赤道と西南の霊関道が別々に経て、大理にまとまっていた。大理から西へヤンビー県を経て、博南山区に入った。博南は紀元1世紀から名付けたのが、現在の永平県にある。紀元前105年ごろ漢武帝の命令に従って、この古道を打ち抜いた(当時に博南山道と呼ばれた)。古道は西へ瀾滄江を渡って保山地区に入っていた。保山は古代の永昌郡、永昌府の所在地であり、また、シルクロードが経過した主要地区ので、この古道が「永昌道」と呼ばれた。瀾滄江のほとりにくると、博南山と羅岷山の絶壁が対峙する様子が見える。傍に蘭津の古い渡し場があり、これは永昌道の必ず経なければならぬ所だ。渡し場の近くで二つの橋脚があり、中国で発見された一番古い鉄鎖の釣り橋――霽虹橋が架かっている。言うことによれば当時毎朝橋門を開く前に橋を渡るため待っていた隊商、人馬は五、六里長い列になるそうだ。今、古道にまた深い馬蹄の跡が残っているのは、当時の往復の人馬の繁華程度がわかる。